ほふられた子羊

きのう、ケニヤの獣医師・神戸俊平さんから「ほふられた子羊」の一文が届いた。
マサイの男が「治療してくれ」と羊の首に縄をかけて引っ張ってきた。「治らない」というと、「わかった」と言って木陰をさがし、2、3人の男に羊の頭と足を抑えてもらい、無表情にナイフで首を切り出したという。頚動脈が切られ赤い血が流れると、ボランティアで来ていた日本人女性は泣き出した。マサイは「なぜ泣くのか」とけげん顔。
かつてトルコを旅したとき、イスラムの「いけにえの祭り」に出会った。この日トルコ全土で1000万頭の羊がほふられるという。人口6700万人だから一家で1頭の割りだ。わたしたちは乗ったバスを停め、うしろ足を木の枝に吊るし、皮を小さなナイフではぎ取っているのを見た。りっぱな角の頭はもうそのへんに転がっていて、子どもたちは、ぼくも大きくなったらやるぞという目つきで見つめている。血は流れて土にしみていた。
俊平さんは「ほふる」とは、仏壇に「お供えする」のとはほど遠い凄惨な死だという。この「血」が日本人に違和感を与える。韓国人には大陸の遊牧民の血が流れ、豚の頭を開店祝いに贈るのを見ても、日本人とは違い「ほふる」実感が肌にある。
山羊は死を予感して暴れるが、羊は抑えられたまま黙って死ぬという。まさにイエスの十字架の死、子羊の死そのものだ。衣ははぎとられ、血潮は土にしみた。
「わたしたちの罪をすべて、主は彼(キリスト)に負わせられた」(イザヤ53・6)