常陸(ひたち)山が草刈りに

「キムさん元気」「おかげさまで」。この「おかげさまで」がすらっと出るようになれば、留学生の日本語もたいしたもの。
そのキムさんが「どうして、藤尾さんで、後藤さんですか」と聞く。「えっ?」「同じ藤なのに、発音がちがいます」「なるほど」。韓国では一つの漢字の発音はすべて同じだ。「藤」はいつも「トゥン」。藤尾は「トゥンミ」。わたしは考えて「藤が名前の上にくる藤尾、藤井、藤田は<フジ>で、藤が下にくる後藤、近藤、江藤は<トウ>だ」。
さらにキムさんが聞く。「一匹、二匹、三匹、ですね」「そうだよ」「ぜんぶ違います」「えっ?」。「いっピキでしょう、にヒキ、さんビキでしょう」。「ピキと、ヒキと、ビキがあります」「なるほど」。留学生は鋭い。鋭いというより、わけがわからぬ日本語に悪戦苦闘しているのだ。「なぜかといわれても困るが、唇が要求する。一匹をいっヒキとはいえない。韓国語でもシンラ(新羅)をシルラというだろう」。
なにしろ日本語は、「日」一字で「ひたちやまがくさかりに」と、8つの読みがある。日(ひ)、1日(つい(たち)、日本(やま)と)、春日(かす(が)、日下(くさ)か)、三日(みっ(か)、晦日(つごも(り)、日記(に)っき)。いやはや外人泣かせ。
キリスト信仰も「主様のおかげで」が、すらっと出るようになれば、もう一人前。
「主はすぐ近くにおられます」(フィリピ4・5)