あいまいな言葉

「お変わりありませんか」「おかげさまで」。この「おかげさまで」は便利な言葉だ。「はい元気です」とも違うあいまいさがある。だれの「おかげ」なのか。元来は「神仏のおかげ」の意味だったろうが、今は相手の好意の「おかげ」に用いるようだ。そのさいは「おかげさま」と「さま」がはいるらしい(日本国語大辞典)。
また「ちょっと」も便利なあいまい言葉。「どちらへ」「ちょっと、そこまで」。また「ちょっと出かけてくる」。どこへ行くのか、どれだけの時間か、あいまいだ。返事しにくいその場を抜けだす方便に使われる。
ある方が、自宅で騒いだ近所の子どもをきつく叱った翌日、教会の礼拝へ行こうと家を出ると、その叱った子どもが立っていて「おばちゃん、どこへゆくの」。きのう、がみがみ言ったてまえ、礼拝というのが恥ずかしく「ちょっと、そこまで」。便利な言葉だ。
エスさまには、きっぱりと「野の花を見よ」とか、「せまい門から入れ」という言葉が多いが、時にはあいまいな言葉もある。ローマの総督ピラトに「お前がユダヤ人の王か」と聞かれると、イエスは「それはあなたが言っている」と、否定も肯定もされなかった(マルコ15・2)。あいまい言葉が必要なこともあるようだ。イエスが救い主だと言ってもピラトには理解できない。みなが理解できないとき、人は寡黙になるか、あいまいになる。じじつ以後、イエスはピラトが怪しむほど沈黙を守られた。
「聖書はわたし(キリスト)について証しするものだ」(ヨハネ5・39)