左手は偉い

6月末、くも膜下出血で手術をうけた50歳の娘が、今リハビリに励んでいる。感謝なことに、耳が聞こえ、目は開き、口で自由に話せるが、左手、左足がまだ弱い。また左目の視野がせまいらしい。週に一度は病院にゆくが、毎週すこしずつ左手が強められてはいる。
もし左手が利かず、右手だけでは紐も結べない。手ぬぐいもしぼれない。ビンの口を開けられない。まな板で野菜を刻むさい、なんの気なしに抑えていた左手の支えがなければ、料理もままにはできない。洋服の着脱をはじめ、生活のすみずみまで、左手が大きな働きをしているのに驚く。
右利きのわたしは、なんでも右手でやっていたように思うが、じつは左手の助けなしに、十分な働きが出来なかったのだ。右手が動くとき、さっと左手が支えていた。
もしよく働く右手を夫とすると、左手は妻だ。その夫の働きは、夫の気づかぬうちに妻がさっと、ささえたからこそ出来たこと。この話を家内にすると「奥さんは偉いでしょう」。トホホ。いや、たしかに偉い。女房は偉い。左手は偉い。
クリスチャンにとって左手はなにか。目に見えぬ聖霊の働きだ。必要なとき、さっと現れて支えてくださる。ふだん気づかぬうちに助けられているのだ。
「施しをするときは、右手のすることを、左手に知らせてはならない」(マタイ6・3)