草を引く

母の入院で、のび放題にした庭に降り、きのうやっと草を引いた。
まわりには蝉の声がかまびすしい。つくつく法師が啼き出すとき、まるで息を吸い込んでいっきに吐き出すかのように「つくつくぼう〜し」と啼き出す、その最初の声にひびきがある。「つく法師その初声に力満ち」。
腰を下ろして、周りの草を根から掘りあげる。ドクダミが、ひと月まえに抜いたのに、そこここに葉を出している。また小笹が勢力範囲をひろげていた。これら地下茎でのびるのは手ごわい。嫌われても、切られても、また根を張り、葉を芽生えさせるその強靭さ。
ふと抜いた草かげに蝉殻がしがみついている。この夏もここから空に飛び立ったのか。その空蝉(うつせみ)のつぶらな眼が、「お前は蝉脱(せんだつ)したか」と、わたしを見た。俗物のわたしを見透かすかのように。「草引けば空蝉の眼しかと吾を見て」。
植えたすずらんも、地下茎ですごくふえた。いまようやく葉が枯れ始め、赤い実をつけている。すべての草が一所懸命に生きている。キリスト信仰もかくありたい。抜かれても、切られても、踏まれても、頭をもたげるしぶとさ、大きな花はつけずともよい。人の心から、人の心へと、地下茎のように根を張る信仰。福音はそうしてのびてきた。「初蝉や凛たる決意せし朝に」。
「草は刈り取られ、また青草があらわれ、牧草は集められる」(箴言27・25)