すごい人 ふつうの姿

すごい人が、すごい場所ですごいことをする。しかも人とは違う服装をし、ふつうでない食べ物を食べる。これはすごい力のある人にとっては、なんでもない当たり前のこと。
しかし、すごい力のある人が、ふつうの場所で、ふつうの服装をして、ふつうの食べ物を食べながら、すごいことをする。これがほんとうにすごいことだ。
バプテスマのヨハネという、すごい人物が、人里離れた荒れ野で、ラクダの毛衣をまとい、イナゴと野蜜を食べ、神の審きを民衆に叫ぶ。空海というすごい仏僧が、高野山というすごい山奥で、僧衣をまとい、魚肉を食べず、仏法を説く。ヨハネにしろ、空海にしろ、並はずれたすごい人物。それがすごいことをするのは当たり前。
しかし、イエスは神の子で、身分も力もバプテスマのヨハネとは、比較にならぬお方でありながら、その姿は人と変わらず、群衆にまぎれたら、見分けがつかぬふつうの服装。そのわずか12人の弟子にも、エリートは一人も加えず、ふつうの人々。
それが最期の十字架で、すごいことを完成された。全人類の救いだ。罪ある者が罪あるままに罪なしとされるため、罪なき神の子が罪そのものとなって死なれた。すごいことだ。
「(キリストは)人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2・7、8)