浅い流れは音がたかい

岡山県にいられた河野進という牧師さんの詩に、「浅い流れは音がたかい/わたしの/祈りよ/言葉よ/行いよ/音がたかくないか/深い流れは音をたてない」というのがある。
あるとき、新約聖書の「マタイ福音書」5章の、有名な「ああ幸いだ」を読んでいて、音がしないなと思ったことがある。
最初の「霊の貧乏人」は、日本語では「心の貧乏人」と翻訳されるが、前田護郎訳の「霊的貧乏人」が正しいと思う(中央公論社)。この人たちは、こと霊のこと、信仰にかんして豊かではない、熱心ではない、信仰熱心な宗教家からは、あんなやついなくなれば、世の中せいせいすると思われている連中だ。
驚いたことに、イエスの宣教の第1声が「ああ幸いだ、霊の貧乏人」だった。イエスのまなざしは、おとしめられた「霊的貧乏人」にまずむけられる。つぎの「悲しんでいる人」も、大声で泣いてはいない。心の奥で悲しみをこらえている。「柔和な人」を、塚本虎二は「踏みつけられて、じっとがまんしている人々」と訳した(岩波文庫福音書」)。
そのあとの「義に飢え渇く人」「憐れみ深い人」「心の清い人」「平和をつくる人」「義のために迫害される人」まで、大声でわめいてはいない。そうだ「深い言葉も音をたてない」。
そういえば、それにつづく「塩」と「光」も音がない。
「話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう」(詩篇19・5 )