棒読み説教・福音が泣く

きのう衆議院副議長が、頼まれた祝辞に周到な準備をされた話を書いた。地位の高い、話しなれたかたでも、こう努力される。
わたしは教会の牧師が、原稿棒読みの説教をすると聞くと、胸がいたむ。教会の長老までも、書いた祈りを読んでいると聞き、耳を疑う。読むだけの説教や祈りに力があるか。聴衆の魂をゆさぶるか。主イエスは喜ばれるか。福音が泣いていないか。もちろん牧師の説教は毎週だ。聴衆は初心者から50年の古信者まで。その苦労はわかる。それでも言う。
演奏家がリサイタルのまえに、リハーサルを重ね、曲目を自分のものとして演奏会に臨む態度に感心する。
わたしでも話を頼まれると、それなりの用意はする。話す前に話す内容をノートに書く。それを1枚のメモにする。まとめた箇条書きを頭に入れる。さらに洗面所の鏡の前で、30分、50分、70分と時間を計り話しの練習。そのあと家内に時計を見て聞いてもらう。家内が一番正直な批判者だからだ。
この夏の、山形・独立学園「叶水夏の学校」での話は、70分三日連続だったので、始めの二日分は家内にも聞いてもらったが、三日目の話は尻切れだった。
しかし話しに行く前、家内は玄関の上に立ち、靴をはいた私の頭に手をのせて、いつも祈る。30年来の習慣だ。これで力が上からくだる。
「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(マタイ24・44)