無音の音、アシュラム

「ちいろば先生」こと、榎本保郎牧師が提唱された「アシュラム」の会に出たことがある。
まず教えられたのは、聖書に聴くという態度だ。自分が聖書を読むのではない。聖書が語りかける主の声を聴くのだ。そのために沈黙する。この沈黙、瞑想は、その人の精神をきたえる。精神が弱いとこの長い沈黙と無言に耐えられない。
ある音楽の専門家が、ある礼拝の沈黙に出会って「無音の音」を感じたと言われた。中国の老子も言う「大音希声」
にぎやかな礼拝があり、静かな礼拝がある。しかし静かに主の声を聴こうとする礼拝は深い礼拝でないか。ここから立ち上がって叫ぶ信仰が本物でないか。
じつは三浦綾子さんから、白洋舎の五十嵐健治翁の伝記「夕あり朝あり」の、新潮文庫巻末解説をたのまれ書いた。その解説を読んだ主婦の友社の編集者が「三浦綾子全集」第13巻の巻末解説を頼んできた。それには「夕あり朝あり」と、「ちいろば先生物語」の2冊が収められるという。わたしは健治翁については、いささか存知あげているが、榎本牧師はまったく知らない。そこで、榎本先生の本質を探りたいと思いアシュラムに参加した。
アシュラムの長所はまだたくさんある。日本の教会に、このアシュラムの精神をひろめた榎本牧師の功績は大きい。
「主よ、お話しください。しもべは聞いております」(第1サムエル3・9)