水引草と金木犀 (モクセイ)

shirasagikara2006-10-05

水引草の赤が鮮やかになった。木犀が香りつづける。きょう、水引草と木犀を韓国青磁の壺に活けた。水引草の細い線が空間を大きく乱れ裂く。
木犀の花は近づくとその香りで気づく。花は葉かげに奥ゆかしく咲く。よく見ると枝から8本の茎を出し、それぞれにダイダイ色の小花をつける。咲き誇ればむせるような芳香を放つ。
それに木犀の太い幹の照葉に囲まれた枝内は、大きな鳥は入れず、小鳥やスズメがさえずり枝移りする遊び場になる、やさしい樹だ。その散りざまがまた見事。音もなく散り始め、道ゆく人は足元の花の敷物に驚き上を仰ぐ。(右の写真)
水引草もひそやかな秋の花。いや花ともいえぬ粒々の赤いつぼみを、ぴんぴんした糸のような茎にならべる。4弁の小花がひらき、下からみると白く、上から見ると赤いからこの名がついた。
ひとしくキリスト信仰といっても、個人差があり、民族差がある。踊るような黒人の礼拝があり、激しい韓国教会の祈りがある。ドイツ人が作曲した賛美歌と、アメリカ人の好む歌はちがうように見える。
目立たない水引草などに目をとめるのは、日本人ではないか。イエスも小さいものに目を注がれた。水引草に目をとめ、木犀の香りを愛する日本人は、案外イエスの核心をつかんでいるのかも知れない。見えぬ香りで主を指さし、散った花で上を仰がせる。
「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです」(第2コリント2・15)