イエスが見つめたもの

きょうはイエスのことを書きたい。イエスは「不思議なお方」。神の子でありながら、小さいことに強い関心を寄せられる。イエスは「うれしいお方」。吹けば飛ぶようなわたしを見捨てず、じっと目を凝らされる。イエスは「すごいお方」。つねに一番大事なもの、本質は何かと見つめ、それをつかみ出して教えられる。
人は関心のあるほうへ目が向く。自分の子どもが幼児のときは同じ幼児に、娘が病気だと、同じ病気の方のテレビに関心が向く。だからイエスが何を見、どう振舞ったかで、その関心事がわかる。それがこれだ。
第一に、わずか12人の、おしなべて社会で地位の高くない平凡な弟子を選んだ。
第二に、たくさんの苦しむ病人をいやしたが、金持ちはいない。
第三に、「大きい神殿」「5000人の給食」「2000匹の豚」「多額の献金」に無関心だ。
第四に、「一杯の水」「からし種1粒」「幼な子」「レプタ2枚」に注目される。
そして第五に、敗北にみえるあの十字架で、弟子総崩れのなか、弱々しく、無抵抗で、ほとんど身ぐるみ剥がれ、神からも捨てられて、死を遂げられた。
罪なきイエスが、罪そのものとなって死んだゆえに、罪あるものが、罪あるままに、罪なきものとされるためだ。
「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(第2コリント5・21)