譲り葉とキリスト教会

<秋風起こって 白雲飛び 草木黄落して 雁南へ帰る> /枯れ葉黄落の秋だ。
二階のわたしの部屋のまん前に、譲り葉が立つ。南の道をはさんだ向かいの家の、ベランダと向き合うので目隠しに植えた木だ。
それがぐんぐん伸びて、いま庭一番の高木となった。きょう入っている植木屋泣かせだ。6メートルは越える梢の枝を払うのは、もうたいへん。
春、新芽が伸びると古い葉が落ち、15センチはある長い落葉は、白い葉裏も見せて、るいるいと根元に重なる。じつに生命力にあふれた木で、11月になっても新しい葉がまた伸びる。この力づよさと、古い葉が新しい葉に譲り落ちて根を養う姿が好きだ。
世界中にうっそうと繁るキリスト教会の樹々も、この譲り葉のように伸びた。ローマではその年輪は2000を数え、日本でも450年にあまる。その400年近く前から200年。キリシタンの迫害時代があった。世界のキリスト教史上まれにみる残酷で、執拗な弾圧だった。しかも迫害のなかを生き延びた歴史が残る。
この殉教の花が咲き、散り重なり、根を養った上に、今の日本の教会が建つ。奮い立たせられるのは、いま繁っている樹ではなく、散り敷いた落ち葉の物語りだ。徳川のカトリック、明治のプロテスタントの苦難の譲り葉の物語りだ。
「信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです」(ローマ4・16)