福音の熱き血潮にふれもみで

「やわはだの 熱き血潮にふれもみで 寂しからずや 道を説く君」。女流歌人与謝野晶子の短歌だ。これをだれが読み替えたか、「福音の 熱き血潮にふれもみで 寂しからずや 道を説く君」とした。
たしかに福音がわかったとき、人はかわる。伝道者・藤井武は「みいでたる 真理ひとつに胸は満ち たれにか伝へん ただ卓をめぐる」と詠んだ。わたしが洗礼を受けた浅田正吉先生は、罪の身そのまま救われることがわかり、うれしくて、うれしくて、一日部屋の中を歩きまわられたという。
わたしも、酒枝義旗先生の聖書講義を聴いて、ある日、下宿の3畳のせまい部屋で「ああそうか」と福音がわかり、広い大野に出されて大喜びをした経験がある。つぎの日から、同じ空、同じ花が違う輝きにみえた。
きょう所要で乗った西武池袋線で、椎名町駅に電車が停まったとき、、島岡譲さんを思い出した。鷺宮のわが家で酒枝義旗先生の日曜集会をしていたころ、島岡さんは先生から福音を聴き、あまりうれしくて、玄関の献金箱へ財布のお金を全部入れ、外へでてから電車賃がないことに気づいた。しかし鷺宮から椎名町まで、喜んで歩いて帰ったという。ずいぶん遠いなと今日も電車の窓から椎名町駅を見た。
すべて福音の 熱き血潮にふれたからだ。これなくして福音を説くのはたしかに寂しい。
「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り」(ルカ23・52)