気になる能力、ならぬ能力

二日かけて、風呂場とトイレのタイルを磨いた。タイル磨きは力仕事だ。男の仕事だ。
10年ほど前、わたしが「気にならぬ能力」に気づいたのもこの風呂場だ。わたしはがんこな汚れが気になった。家内は気にしない。気にならないのも、たいした能力だと。
「気になる」のも、「気にならぬ」のも、プラスの能力と、マイナス面がある。
「気になる能力」のプラス面は、きれい好きで、きちんとしている。マイナス面は、不潔で乱雑がゆるせない。「気にしない態度が気になる」。「気にならぬ能力」のプラス面は、乱雑で喧騒な環境に順応できる。包容力があり、おおらかだ。マイナス面は不潔に鈍感。不精。投げやり。
だから「気になる能力、ならぬ能力」とも、そのマイナス面を自覚して、プラス面を活かせばばいい。
あのイエスさまが、それをなさった。お弟子さんがユダヤの掟を「気にしない」で、手も洗わずパンを食べる。ファリサイ派は弟子が「気にしないのを気にした」。イエスは弟子が「気にしないのを気にしない」。これは空腹の弟子への愛だ。愛が掟破りを包むのだ。
人間が自分のがんこな「罪を気にもしないで」鈍感に生きているのを、イエスは「気になさって」十字架で死なれた。これこそ深い愛だ。
「愛はすべてを覆う。ぜんぶ信じる。ことごとく望む。いっさい耐える」(第1コリント13・7)