「する」と「なる」

「しばらくお会いしないうち、おたくのお嬢様、きれいになられましたね」。
これはきれいに「なった」ので、化粧できれいに「した」のではない。「なる」と「する」はちがう。受身と能動のちがいだ。
金を「もうける」と「もうかる」。財産を「ふやす」と「ふえる」。教会を「大きくする」と「大きくなる」はちがう。
使徒言行録6章に、そのころ、弟子の数が「ふえて」とある。「ふやした」のではない。ふと気づくと、このごろ教会員がふえている。この受身で大きくなる場合は、すべて内に充実があり、喜びがある。逆に「減ったな」というときは、よろこびも減っている。
柔道に「巴投げ」という技がある。相手の襟を両手でつかみ、自分はうしろに転びながら、相手の股をすくい上げて、うしろへ投げ飛ばす。受け身の能動だ。
教会を大きくしようとするな。主の名が大きくなることを願え。
信者をふやそうと願うな。主を喜ぶよろこびがふえることを祈れ。
主はときに教会を小さくされる。謙遜にするためだ。小さくされたとき、その教会の真価が問われる。それは老年になり、衰えながら感謝できるか、どうかに通じる信仰だ。
「わたしたちの<外なる人>は衰えても、わたしたちの<内なる人>は日々新たにされていく」(第2コリント4・16)