ドイツからのたより

数日まえ、ドイツから絵葉書がとどいた。しかし署名がない。だれかしら。
それを解くキーワードは三つ。「定年退職」「キリストをすごく喜んでいる」「藤尾のブログを読んでいる」。これで範囲は絞られるのに心あたりが浮かばない。
「ドイツの教会を巡り、胸のなかに光り輝く十字架のイエス・キリストがぴったり収まっている」。「藤尾さんが、カバンを空に投げたいように喜んで、酒枝先生の下へ通ったことが、わたしにもわかった」。うれしい葉書だ。それでもだれか、わからない。
それが今日、二枚目の絵葉書がとどいて疑問が氷解。なんだ彼か。しかしなんという信仰の飛躍だ。だからわからなかった。
「わたしの旅は、マルチン・ルターの街、ヴィッテンベルグで終わりました」。ほかの国々へは行けなかったが、「小さな村の教会で主を賛美する旅は、まさにフロイデ(よろこび)の旅でした」。「自分の十字架を負って、主を仰いでいけば、それでよいと思うと、光につつまれた自分を感じています」。びっくりする、うれしいたより。
主が彼をつかんでいられる。彼が主をつかんだのではない。彼とは古いつきあいだが、こんなにキリストに目が開かれたとは、うれしいかぎり。その陰に信仰の女性・彼の妻の存在を思っている。
「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(ヨハネ9・25)