相手のためにやめる自由

伝道集会を頼まれて地方に出かけた。その教会はルーテル派。夜の集まりのまえに信者の家で食事が出たが、驚いたことに酒をすすめられた。
ルーテル派の親分のマルチン・ルター先生が「ルーテルさまでもあるまいに、そんなにビールが飲めるかよ」と歌われるほど、ルーテル派では酒・タバコの禁忌はない。
「集会の前ですから」と辞退すると、「いや、いっぱいやったほうが、舌のすべりがよくなります」には笑って、少しお付き合いをした。
世界の教会で、酒・タバコの禁忌を守るのは少数派だ。それがなぜ日本では明治以来多数派になり、中心と周辺を逆転させたのか。
最初に来た宣教師が、キリスト教徒はかくあるべしと教え、あとから英国聖公会や、ルーテル派など、酒・タバコの禁忌のない教派が来日し、その牧師たちがタバコを吸っていると「え!先生、タバコを吸われるんですか」と驚くので、牧師も、信者を驚かせないため禁忌を守ったからだ。偉い。
日本敗戦後、エミール・ブルンナー博士が来日され、ある教会のロビーでタバコを吸っていると「先生、教会でタバコは」と注意された。博士は日本滞在中禁煙。偉い。そしてこう言われた。「タバコは健康問題としていうべきだ。YMCAは喫煙を教えては」。痛烈な皮肉だ。
「(これをしてはならぬと思う)弱い人に対しては、弱い人のようになりました」(第1コリント9・22)