ごちゃまぜ教会、すっきり教会

キリストの教会は「ごちゃまぜ教会」がいい。キリストを救い主と信じる一点で結ばれ、それ以外から自由になり、老若男女がほどよく入り交じり、この世の問題では意見が違い、いろんな政党を支持する人がおり、職業も、地位もまちまちなのがいい。
しかし教会史は「ごちゃまぜ教会」でなく、「すっきり教会」への歴史でもあった。
ひとしくキリストを信じながら、教会の運営や、この世のことでも、同じ意見の者が集まり、意見が違う者を排除して「すっきり教会」がつぎつぎできた。
たしかに、キリストの本源の姿に帰ろうとして分裂は起こった面もある。ルターの宗教改革がその例だ。しかしささいな礼拝の方法をめぐる分裂もある。全身水に入るか否かの洗礼の方法や、礼拝で楽器を使う、使わないとか、女性がベールをかぶる、かぶらぬの意見対立もあった。そして同じ意見の者だけが集まる「すっきり教会」ができる。
使徒パウロは、割礼のあるなしを問題にするな。何でも食べる信仰の強い人も、野菜だけ食べる弱い人も、さばかず互いに受け入れよと語る(ローマ15章)。
「すっきり教会」はすっきりして気持ちいい。しかしキリストは「ごちゃまぜ教会」を喜ばれるに違いない。なぜなら「すっきり教会」は仲好しクラブになり勝ちだからだ。
「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」(ローマ14・1)