北朝鮮の農民の信仰

黒崎重彦さんはわたしにとり、酒枝義旗先生の集会での、信仰の兄弟子だ。
彼は日本敗戦前、日立の中央研究所から平壌ピョンヤン)の日立系列会社に出向。学生時代から左翼思想家でソ連軍進駐を歓迎したがたちまち幻滅し帰国を決意。つかまらないように道なき山中を10家族ほどで南に向かった。食料はつきふらふら歩いていると、一人の若い母親が子どもの食べていたお椀を取り上げ、自分がむさぼる姿。母親の愛は絶対だと思っていたのに、極限状態での母の振る舞いに衝撃を受ける。
さまようこと1か月。1946年9月なかば、黄海道清涼里という農村の畦道で足をすべらし水田に落下。かすかな光を頼りに農家の戸をたたき、飢えと疲労とずぶ濡れの寒さに震えながら納屋の隅にでもとひれ伏した。
それまで朝鮮を支配した日本人は追い返されて当然なのに、若い農民はオンドル部屋に入れた。午前2時ごろだ。農民は奥さんを起こし、彼の濡れたボロ服を下着まで洗わせた。
泥のように寝た彼は家庭礼拝の歌声で目覚める。むかし日曜学校で聞いた讃美歌だった。老婆がドンブリの粟めしにキムチを乗せて運んできた。奥さんは、まだなま乾きだと服をもってきた。オンドル部屋、ドンブリめし、深夜の洗濯、早朝の賛美歌。
一人の日本の科学者をキリストへと回心させたのは、無名の朝鮮農民の信仰だった。
「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のとき着せ」(マタイ25・35)