恩がえし

あるとき東京都内をくるまで走っていて、「ああ、そうだ。この近くにむかしお世話になった方がいられる」と気づいた。ちょっとお寄りしようかと一瞬思ったが走りすぎた。それから間もなくその恩人が急死された。心残りでならない。
ずいぶんたくさんの方々からご恩を受けた。あの先生、この友人と考え、受けたご恩は思い出せるが、改めてお礼にうかがったことはほとんどない。申し訳ないことだ。
「鶴の恩返し」という民話がある。わなにかかって苦しむ鶴を老人が助けた。その夜美しい娘が宿を乞いそのまま住んだ。そして糸を求め機織りを始めたが部屋を開けないでとたのむ。織った布は高価で売れた。ある夜老婆が戸からのぞいた。鶴がくちばしで羽根を抜き糸に織り込んでいた。鶴は布を二人に渡し「ご恩は忘れません」と飛び去る話だ。
日曜日、キリストを礼拝するというのは、キリストから受けたご恩を、心で思うだけでなく、その方のところをたずねて、面とむかって「あなたは、なんと恵み深いかたでしょう」と、キリストをほめることだ。鶴でさえ恩人の家をたずね、痛いのに自分の羽根を抜いて捧げたように、主に賛美を捧げ、身と、心と、財を捧げる。これが恩返しではないか。その礼拝は、もちろん教会堂だけでとは限らない。
「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」(ルカ6・35)