小さいものが大きく見える

いっしょにバスを降りたのに、1分もすると、同じ方向にむかう若い男性は、もうずっと先を歩いている。二人づれの女性にもかなり遅れる。やはり歳だ。若いころは、わたしでもどんどん歩けた。週に2、3回は昼休みに皇居の周り5000メートルを走っていた。
しかし、ゆっくり歩くのも大事なことだ。小さい子どもの手を引くと、子どもの足に合わせてゆっくり歩く。子どもは道の落ち葉や小石をひらう。低い子どもの目線からは、小さいものが、大きく見えるに違いない。
新幹線の窓から、富士山はじっと見つめられるが、近くの町や林は飛ぶように走り去る。走る人には近くが見えない。猛烈に働いている時には家族が見えない。子どもが見えない。大きなものは見えるが、近いものや小さいものは視界から消え去るのだ。
あの走りづめの人生を駆け抜けたヤコブが、旧約聖書の「創世記」33章で、兄エサウに「わたしは、家畜や子どもたちの歩みにあわせて、ゆっくり進みます」という。ペニエルの河原で、神様なしに歩けないことを骨身にこたえて知った後だ。
人生で、この早く歩くことと、ゆっくり歩く緩急のコツを身につけるのは、毎週休まず礼拝に出るのが一番の方法だ。ふだん走っている人も、小さなものが大きく見え、近くのものもはっきり見えるはずだ。
「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」(マルコ8・18)