民族、宗教へのいじめ

カラスが啼かぬ日があっても、「いじめ」という字が新聞に躍らぬ日はない昨今だ。
このいじめは、個人の間だけでなく民族、宗教へのいじめもある。
ローマ帝国キリスト教徒を迫害し、そのキリスト教ユダヤ教徒をいじめた。1215年の第Ⅳ回ラテラン教会会議でユダヤ教迫害が本格化する。そして16世紀、改革者ルターまでその片棒をかついだ。ヒトラーユダヤ人迫害は記憶に新しい。そのいじめられたユダヤ人が、1948年のイスラエル建国以来、こんどはパレスチナ人をいじめている。 日本では17世紀以降、徳川幕府カトリック信者をいじめ、その日本は20世紀前半、隣りの朝鮮民族をいじめた。
しかし人類の歴史はいじめの歴史ばかりではない。愛と犠牲で支えられてきた。朝鮮人を愛し抜いて死んだ、伝道者・乗松雅休。人種・信仰の別なく貧しく死に行くものに仕えたマザーテレサら、数限りない人々。
しかし強者と弱者がいるかぎりいじめはなくならない。どうすればよいか。
一方で、いじめ対策を立て訴えつづけ、他方で、いじめに負けない、撃たれ強い魂を育てるのだ。キリスト教も、迫害にへこたれず、福音が撃たれ強かったから残った。いじめに泣くな。撃たれ強くなれ。イエスのように。キリシタンのように。
「軛を負わされたなら、黙して独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない」(哀歌3・28)