キリストに曲げる、近づく

いつも不思議に思うのは、さいしょ痛くて曲がらないからだが、1、2分も曲げつづけていると曲がってゆく。それも毎朝だ。自分なりの朝の運動を始めて、もう何年になるか。20年、もっと以上かもしれない。
その一つに、腰を下ろし、両足うらを合わせ、その足をめざして上体を曲げる。1回、2回は足はまだ遠い。それが10回、15回で顔が足に近づく。毎日数えていると、25回でやっと二つの親指に鼻が届く。30回で鼻をつまめる。そして40回で顔を挟める。45回から50回は、もうオデコで床をたたける。どんどんからだが柔らかくなる。不思議だなと毎朝思う。
固いからだが柔らかくなる。固い心が柔らかくなる。それはすぐにはできない。つづけているとそれが叶う。そちらへ近づこう、曲げようと、努力すると、柔らかくなり、曲がってゆく。遠かったものが近くなる。
キリストを信じる前は、まだキリストが遠い。日曜日ごとに教会へゆくのはシンドイ感じ。しかしキリストに近づこうと決心し、そのほうに毎週からだを曲げて、礼拝にでているうちに、からだも心もしなやかになる。教会の門が近くなる。その門をくぐるのが楽しくなる。毎週キリストにお会いするのが、シンドイどころか生きがいになる。そして教会の土台のキリストに頭をすりつける。このくせがつくと、もうやめられない。
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(1コリント3・11)