荒川放水路と青山士

東京と千葉をつなぐ総武線の電車が、平井駅を出て荒川の長い鉄橋を渡るとき、いつもわたしは青山士を思い出します。このごろ千葉県に住む娘が入院治療中で、しよちゅうこの鉄橋を渡るのです。彼はこの人工河川・荒川放水路(いまの荒川)を完成させ、東京の下町を水害から救った人物です。
東京の北から東がわに、ぐるりと五〇〇メートルの巾で、大河川を掘り起こし、日本で初めて部分的にも機械を使い土木工事を成功させた方でした。
ハス博士の大賀一郎先生が、なぜかわたしに「ぱなま運河の話」という本をくださいました。パナマ運河の設計、施行、進捗状況が、写真、図面入りでくわしくしるされています(いま今井館無教会図書館所蔵)。著者は青山士。パナマ運河の建設にかかわった、ただ一人の日本人技師でした。
大賀先生は「有島武郎の『背教者』という小説は、青山士を横浜港に見送る光景から始まる」といわれました。青山、大賀、有島は内村鑑三の弟子ですが、有島だけが背教者となりました。青山は一高・東大工学部の学生時代、内村に師事し、終生、武士道とキリスト教をひとつにした信仰をつらぬいた方です。
彼は一九〇四(明治三七)年、パナマ運河の大造成工事にかかわるため、米国を経由してパナマに渡ります。
初めはアジア人労働者だと差別され、東大工学部を出ているにかかわらず、酷暑の野外測量員として働かされます。しかし次第にその優秀な技術が認められ、ガツンダムや閘門の設計等に従事します。そして当時の機械土木工学の先端知識を吸収したのです。
帰国した彼は、この経験を引っさげて、一九一二(大正一)年から荒川放水路建設の陣頭指揮を取り、総責任者となりました。
しつような業者の賄賂をはねつけ、川幅五〇〇メートルの大工事を完成させたのです。河口にいまも残る「完成記念石碑」に彼が撰した文字には、関係者の努力を讃えるのみで、彼の名はありません。
また新潟県信濃川大河津分水可動堰も、彼が指揮して一九三一(昭和六)年に完成させています。一九三四(昭和九)年、内務省技監になり、翌年日本土木学会長に就任しますが、荒川放水路については、彼の名は無名に沈んでいます。
きのう、荒川の六〇〇メートルの大鉄橋をわたりながら青山士を思い、川を見つめました。 「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(第一コリント八・一)