迷いながら進む

きのう退院したという知らせを受けて友人宅をたずねた。くるまで行けば6キロほどだが、ためしに自転車で行った。これまで通ったことのない裏道をたどり、時間を気にせず、迷いながら行こうと最初から決め、いくつか坂を下り、81歳が坂を駆け上がった。
いつのまにかカラー舗装された途中の商店街、うっそうと茂る屋敷林、こんな並木道があったのかと自転車をこぐ。しかも東に進んでいるつもりが、北に走ったりしつつ、景色を変える新しいビルや、むかしながらの家並みの間をこいでやっと到着。
不意の訪問で、寝ているかと思ったのに、玄関に立って迎えてくれた。発病と回復の話を聞き、聖書を読み、祈り、筆で書いた聖句のはがきを差し上げて歓談。30分ほど居て家路にむかう。伝道者の訪問は短いがいい。
帰りもやはり迷った。あとで地図でたどると、とんでもないところを走っている。しかし迷いながら、遠回りして走るのは面白い。新しい発見と緊張がある。人生と同じだ。
「人間努力しているあいだは、迷うに決まっている」は、「ファウスト」天上の序曲の主の言葉。そして「たえず努力している者は、われらが救うことができる」は終曲の天使の声。だれしも、日々努力があり、迷いがあり、救いがある。それが人生。迷いながら参ろうぞ。おのおのがた。
「わたしが小羊のように失われ、迷うとき、どうかあなたの僕を探してください」(詩篇119・176)