皇室とキリスト教

日本の敗戦後、皇室にもキリスト教の光が射した一時期がありました。
一九四六(昭和二一)年三月のこと、昭和天皇が米国教育使節団との会見の席上、いきなり皇太子の家庭教師の紹介を申し入れたのです。
そのあと、天皇の使者が米国がわに示した条件は三つです。
第一は、狂信的でない「クリスチャン女性」であること。第二は、「日本ずれしていない」こと。第三は、「年齢が五〇歳前後」のこと。
六〇〇人の応募者のうち、白羽の矢が立ったのは、平和主義のクエーカー派のエリザベス・バイニング夫人でした。
当時皇太子は学習院中等科一年生の一二歳。以後四年あまり、少年皇太子への、品格の高いバイニング夫人の影響は強烈だったにちがいありません。昨秋、皇太子が天皇になっていたころ、学校での国旗掲揚、国歌斉唱は「強制ではないことが望ましい」と、リベラルな考えを語ったのもその影響でしょう。
一九四七(昭和二二)年には、皇后がYWCA(キリスト教女子青年会)の植村環に、三人の姫君へ毎週一時間、呉竹寮で聖書の話を依頼します。一九四八(昭和二三)年四月からは、皇后自身も植村環に聖書講義を受け始めます。山上の説教の「幸福」、パウロ書簡の「愛」につての話もあり、皇后は熱心にメモをとって聴いたといわれます。時には昭和天皇も傍聴しました。皇后の愛唱讃美歌は「たえなる道しるべの光よ」(二八八番)でした。天皇の戦争責任論議で、天皇制が揺らいでいた時期でもありました。 神道で抜き差しならぬ皇室でも、いやそうだからこそ、まことを求める心が強かったのかも知れません。
それに宮内省が、一九四八(昭和二三)年、宮内庁に格下げになった、最初の長官は田島道治で、侍従長三谷隆信(三谷隆正の弟)でした。二人とも、第一高等学校の生徒時代、校長の新渡戸稲造に紹介されて内村鑑三に弟子入りし、宮中で「クリスチャン・コンビ」とよばれた仲でした。皇室にもキリスト教の光が射した一時期があったのです。「ああ幸いだ、心の清い人たち、み国に入って神にまみえるのはその人たちだから」(マタイ五・八、塚本虎二訳)