翻訳は二つの言葉の橋渡し

あるとき、わたしの勤め先に、英語、フランス語がペラペラという方が採用された。わたしたちは翻訳を見てもらえると喜んだ。それがたちまち失望に変わった。翻訳は両方の言葉ができなくてはだめだ。彼は少年時代から外国で生活し、いくつかの国の大学で学び、外国語の会話はよくできたが、日本語の文章表現力が弱かった。
聖書を初めてまるごと自国語に翻訳したのはドイツのルーテルさん。彼は主婦や子どもや市場の商人の会話にも注意して翻訳に取り入れたという。日本語新約聖書を最初に口語で翻訳したのは、内村鑑三の弟子の塚本虎二先生。彼もラジオを聞きながら、翻訳に使える日本語をたえずメモし、「金持ちが神の国にはいるよりは、ラクダが針の穴を通るほうがラクダ」と名訳を残した(ただし最後の「楽だ」で聴衆が笑うため「岩波文庫」では別訳)。
神のことばの聖書を、日曜日に講義や説教をしたり、家庭集会でお話するのも、ひとつの翻訳作業だ。天のことばを、地上の方々に、わかりやすく、聖書はこんなに面白い本でしたか、イエスさまはそういうお方でしたかと、主婦や子どもや市場の商人でも、納得することばに翻訳することにほかならない。
聖書の勉強は大事だが、あの外国語はできても翻訳ができなかったお方を思い、話を聞くものが失望しないで、いや大喜びして聞くよう、正確に翻訳したいものだ。
「わたしは、天から下って来た生けるパンです」(ヨハネ6・51)