信仰の先生、いそちゃん

shirasagikara2006-12-02

12月1日、日帰りでいそちゃんをたずねた。21万坪という東北新生園の広大な敷地に清潔な寮舎がならぶ。「いそちゃん!」と呼んで、寮の廊下から明るい部屋に入る。左がトイレ、右が洗面所。もうひとつドアを越すと、ご主人と二人、きちんと整理された和室で迎えてくれた。さらに廊下があって、冷蔵庫などを置いている。
「聖書は開けなくていいんです。そのまま聴いてください」。「はい」といういそちゃんは、手首が弱く聖書は持てない。ご主人は目が不自由だから顔をあげて聴いていられる。園内の教会へは、足が不自由になって通っていない。いそちゃんはひれ伏して喜んで福音を聴いた。イエスはすごい方。一番低い所に落とされた者を救う力がある。
いそちゃんはいざって、柿や、お菓子や、お茶を出す。わたしはナイフで柿をむく。それを大きなフオークで刺し、主人の手に置くと、握って天を仰いで口に入れられた。
わたしの娘が脳の手術から少し回復した時、娘にハンセン病の方が、不自由なからだを、つぶやかず生きていられる話をした。いそちゃんを知っていたから少々のことでたじろがない。あの苦痛。あの忍耐。あの信仰。あの希望。目も足も手も唇も、次第に不自由になりながら、18歳から66年、主を仰いで生きて来たのだ。いそちゃんは、わたしの信仰の先生。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(第2コリント12・9)