赤穂浪士とクリスマス

きょうは、元禄15年(1702)12月14日、播州赤穂の浪士47人が、雪を蹴立てて江戸は本所の吉良邸に討ち入った日だ。もう304年も前の事件。その発端から結末まで、話の筋はほぼ知っている。それなのに、またしても見たい聞きたい物語り。だから毎年また上映される。
イエス・キリスト誕生のクリスマス物語り。2000年も前の話だ。その内容はキリスト信者でなくてもほぼ知っている。それが、この季節またしても語られる。
ぜんぶ知っているのに、なぜまた聞きたいのか。うれしいからだ。うれしい話をだれしも聞きたがる。
日本人にとり「忠臣蔵」は、胸のすく話だ。不当な辱めを受けて無念の切腹をした主君の仇を討つため、「今にみておれ」と忍従し、団結し、奮い立ち、志を遂げる話だからだ。しかしそれは剣げきのひびきと叫びの復讐物語り。
いっぽうクリスマスの物語りは柔らかい。喜びの声はひびくが音はあだやか。母マリア。おさなごイエス。大工ヨセフ。羊飼い。東の博士。そして天使。それがどうしてうれしい話なのか。弱く、低く、小さいものがついに地を継ぐ物語りだからだ。「忠臣蔵」は力強い。しかし世界には強い人より弱い人が多く、強く見える人もほんとうは弱いから、弱い人がゆるされ、愛され、救われるイエスの物語りが、世界中で喜ばれるのだ。
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5・5)