石原恵ちゃん

人間、生涯忘れられぬ思い出がある。1951(昭和26)年12月23日。55年前のきょう。鷺宮のわが家で酒枝集会の「待晨クリスマス祝会」が、午後3時半から8時半まであった。
会に出ていたわが友・石原義盛君の留守宅で、長女・恵ちゃんが、ガス風呂の熱い湯に落ち大やけどを負い、石原君が帰宅して病院に駆けつけると「父ちゃんだっこ」と言ったが、24日午前1時すぎ天に召された。2歳5か月だった。
石原君はわたしと国立国会図書館の同僚。それも同じ調査局。その上ひとしく酒枝義旗先生を信仰の師と仰ぐ仲。どうして忠信な彼に、しかもクリスマス祝会の夜に。
彼は「愛に欠けた自分への神の怒りか」「信仰のゆるみへの警告か」「なぜ自分でなく罪なき娘に」「神はなぜ娘を助けたまわなかったのか」と、苦悶し悩んだ。
酒枝先生は災難の原因を、1)自分以外の社会や人の罪。2)自分の罪。3)神の摂理。の三つの考えがある。信仰の立場は第3だと教えられた。
石原君と久代夫人は、この愛児の死を通して、キリスト信仰の深みへと分け入った。自分の徳行や愛のなさ、信仰のゆるみや罪の結果ではなく、「すべてのこと、相働いて最善となる」と信じ「神様には神様のお考えがある」と教えられた。とくに、復活の信仰、天国への希望が二人を慰め支えた。あれからもう55年たった。
「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしい」(1コリント15・17 )