あのダンテでも

ダンテは14世紀のはじめに「神曲」全100歌、14233行の長詩を書いた。「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」の3篇を、ラテン語でなくイタリアの口語文で書いた。読むだけでも骨が折れる長歌を、内から湧き出る泉のように、あふれる勢いで3行詩をつづけてゆく。
2006年、わたしが毎日ブログを書いていたころ、その「天国篇」に慰められた。それはダンテ自身が、なぜこんな重いテーマを背負ったのかと振り返るくだりだ。
「主題<テーマ>の重きと、これを負うは、必ず死ぬ人間の肩なるに思いをいたす誰しも、その肩、重荷の下にうちふるうとも、これを責めはすまい」(第23歌<寿岳文章訳・集英社>)。
わたしも「日刊ブログ」を始めはしたが、なんでこんな重いテーマを、頼まれもしないのにやり出したのかと思った。しかしあの詩聖ダンテでも、そうだったのかと驚いた。
しかもダンテは、そのすぐあとで、ベアトリーチェに、「おこと(あなた)いかなれば、わたしの顔にのみこころ奪われて、クリストの光被のもと花咲く、あのうるわしい園には顔むけぬぞ?」とたしなめさせる。さすがダンテだ。自分を導く女性ではなく、キリストに目をむけさせる。
わたしも「週刊ブログ」で、キリストに光を当てられればいい。
イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(第2コリント4・8)