イエスは大食漢で大酒飲み

「大食漢で大酒飲み」。これはイエスの敵が、イエスを攻撃するために言いふらした言葉だ。こんな非難はみなうそだと、聖書のイエスをじっとみつめているわたしたちにはすぐわかる。しかし敵は案外ものごとの一面を鋭くつかみ、弱点を握って攻撃する。まったくの作り話では人は信用しないからだ。
エスは「すべての食べ物は清い」と言われた(マルコ7・19)。つまり何をたべてもよいと断言されたのだ。これはまじめなユダヤ人にとって、神経を逆なでされる言葉だ。
いまでもイスラエルのレストランでは「子山羊をその母の乳で煮てはならない」(出エジプト23・19)の規定を守り、肉と乳製品は冷蔵庫も別にし混ぜて使わない。役所が監視の目を光らせているほどだ。それを踏みにじるイエスはゆるせない。
これは、食べたり、飲んだりの食事のことだが、信仰の根幹にかかわる。つまりすべて清い人、おきてを守る人、りっぱな人が神に近く、もしできなければ犠牲を捧げてゆるしを願う。これがふつうの宗教の考えだ。
ところがイエスは救いに条件をつけず、無条件の救いが条件だとした。イエスは「りっぱな信仰」こそ異教の信仰と見た。目を天に向けられず「罪人のわたしをゆるして」と、胸打つ徴税人こそ、神の前に高くされると教えた(ルカ18・13)。だめな信仰、小さな自分こそ、大きな信仰とイエスは見た。イエスの目の鋭さ、その自由の奥ふかさ。
「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイ11・19)