目をあけても祈れ

ふつう「お祈り」は目を閉じて祈る。しかしイエスの時代、人々は立って目をあけ天を見上げ、両手を上に差し出して祈った。
ヨハネ福音書17章の、イエスの「大祭司の祈り」も、「天を仰いで」祈りが始まる。ルカ福音書18章の「徴税人」の祈りは「目を天に上げようともせず」祈った。これは「目をあけて祈る」のが常だったことを物語る。例外はある。マルコ福音書14章のゲッセマネの園では「地面にひれ伏し」イエスは祈られた。
目をあけての祈りは「気が散る」という人もあろう。しかし気づいたことは、目をあけて祈ると、日常坐臥すべてが祈りになることだ。目を閉じた祈りは心が内に向くが、目を天に向ける祈りは「神さまの指紋」を見つける祈りになる。しっかり考える祈りだ。
北海道の果ての、よく祈る教会でのこと。早天祈祷会に10人あまりの教会員が集まり、大きな食堂のテーブルの周りに座って順々に祈った。うしろの長い調理台の前では、牧師夫人が右に左に動きながら、いくつかの鍋釜の火加減を見ている。
そして一人が祈り終わると夫人も「アーメン」ととなえる。いい後ろ姿だなと思った。「いまは祈りの時間、座りなさい」というのでない。動きながら、見るべきものを見つめながら、耳で聞きながら、共に祈っている。目を閉じて祈るのもいいが、目をあけて祈るのもいい。やってみてはいかがか。イエスさまのように。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17・3)