聖書を重く感じるとき

礼拝にゆく。そのとき、ぶあつく重い旧新約聖書が、うれしく、軽く感じられるなら、その人の信仰はずっしり重い。逆に、ぶあつい聖書が重く感じられるとき、その人の信仰は、ふわっと軽くなっていると父から聞いた。手にする聖書に感じる軽さ、重さで、その人の信仰の重さ、軽さがわかるとは、面白くもおそろしい。
重い知的障害のある子どもをもったある親が、「たいへんでしょう」と聞かれ、「何が」と聞き返した。障害児をかかえたことを、他人は「重くて、たいへん」と見る。しかし親は、その子がいとおしくてかわいい。その不自由なしぐさから、たくさんのことを教えられる。他人は重荷と見るが、重荷でない。むしろうれしくさえあるのだ。
愛と喜びがあれば、重いものも軽くなる。イエスも重荷が軽荷に替わるとおっしゃる。
「おいでよ。わたしのもとへ。そうすりゃ、わたしが休ませてあげる。疲れている人は全部。重荷を背負わされたお人も、みんな。わたしのくび木をかついでごらん。そして、わたしの言うとおり稽古するんだ。わたしは優しいし、威張らないからさ。すると、みんなの魂が安らぐんだ。そのわけは、わたしのくび木は、君たちの肩にぴったり合うし、わたしの荷物は軽荷だからさ。」(マタイ11・28−30)<正人・私訳>
肩にぴったりのくび木、足にぴったりの靴。それは「歌をうたえば靴が鳴る」楽しさ。
「あなたの重荷を主にゆだねよ」(詩篇55・23)