散り敷く凌霄花(のうぜんか)

shirasagikara2007-07-02

ことしも、6月下旬から門の凌霄花が咲き始めた。
凌霄花は、ほかの花とは咲き方、散り方が断然ちがう。まずその大きさの花にしては、花数の多さに驚く。幹から伸びた茎はざっと50本。一本の茎に30あまり花芽がつくから、1500は咲くはず。はでな色でわっと群がり咲くさまは、道の遠くからもよく目立つ。
また毎日、散る花の数も豪快だ。とめどもなく咲き、とめどもなく散る。朝、散り敷く花をかたづけるが、雨に打たれた次ぎの朝など、数を数えたら158。それを籠に入れ、ふりかえると、またひとつ、ぽとりと落ちていた。「街ぬちに凌霄花掃く奢りかや」
散った凌霄花のオレンジ色の花びらが、あまりきれいなので、三つ四つひろって水を張った皿に浮かべる。しかし枯れかけて、まだ茎にしがみつく花もある。
さて82歳にもなると、いつも人生の終末、花の散りぎわを考える。104歳の母は、あと54日で105歳を迎える。この親子、長生きを望んだわけでない。主に生かされたのだ。とめどもなく人が生まれ、とめどもなく人が死ぬなか、散るまいと茎にしがみついているわけではない。
ただ、生かされているうちは、「あら、花が咲いてる」と喜ばれ、ふと見ると、ぽとりと落ち、「まだきれい」と、しばらく手に拾われる形がいい。母もわたしも。
「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」(第1ペトロ1・24)