髪を洗う、髪を梳(す)く

京都・同志社の斉藤亥三雄先生のお宅に泊めていただいたとき、先生が「藤尾さん、家内を叱ってくださいよ」「何を」。「家内はボクに毎日顔を洗えというんです」。奥さまは「主人の母は年に1度しか髪を洗わなかったんですって」。
しかし、むかし日本の女性は、長い髪を15、6歳から器用に丸髷(まるまげ)に結い上げていたが、髪を洗うことはほとんどなかった。
山川菊榮武家の女性」(岩波文庫)によれば、「女も髪を洗うのは盆暮ぐらいなもの。男もめったに洗うことはない」(71頁)とある。そのかわり目の細かな黄楊(つげ)の櫛(くし)で、頭皮から髪をくしけずるのだ。毎日大きな洗面台でシャンプーするいまの「朝シャン族」とは大違い。
関屋綾子「一本の樫の木」では、綾子の祖母で森有礼の妻、岩倉具視の娘・寛子は、「毎日とかした髪を熱湯で丹念にふきとり、これを生涯型を変えた事のない束髪にゆいあげるのである」(43頁)。上流階級でもこうだ。
使徒パウロは「男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなる」(第2コリント11・14)という。しかし聖書にも髪を洗う記事はない。おそらくむかしはどこでも、池や川で頭髪を洗うのが精いっぱいだったのだろう。イエスさまも、使徒たちも。
「マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」(ヨハネ12・3)