いったい、神さまはわたしをどうされる

きのう、わが家に来られるはずの女性から葉書が来た。「右耳が突発性難聴と診断され入院するので行けない」。彼女は透析も受けており、4年前、左耳が難聴になった。なぜ神さまは、こんなむごいことをと思う。
忘れもしない1948年正月、わたしは酒枝義旗先生のお宅に新年の挨拶に伺った。入れ替わりに、ドイツの宣教師エッケルさん一家が出て来られた。先生の書斎に入ると、「いや、さすがマルチン・ルーテルの国の宣教師は違いますね」と言われる。エッケルさんに餅を出すと、お子さんが「モチ、モチ」と喜んだ。
当時、米国宣教師は戦勝国の本国から豊富な援助物資を受けていたが、敗戦国ドイツから1マルクの支援もないエッケルさんは、道路工事の人夫までして家族を支えた。おそらく酒枝先生が早稲田のドイツ語の講師の世話をされ、その挨拶に来られたのだ。
「エッケルさん、大変でしょう」と聞かれると、「いや、神さまが、これからわたしをどうされるのか、それが楽しみです」と答えたという。これは大変な事態に直面したとき、下から神さまを仰ぐのでなく、自分の目を神さまの高みまで引き上げ、自分を見る態度だ。
わたしたちも「いったい、神さまはわたしをどうされるのか」と、ゆったり自分を神さまの高さから眺める時、暗い思いから解放されるはずだ。
「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ、主に申し上げよ、わたしの避けどころ、砦、わたしの神、依り頼む方」(詩篇91・1、2)