内村鑑三は日本一の美男子

七月一〇日、東京・駒場日本近代文学館で「内村鑑三は日本一の美男子」という長与善郎の日記を見つけました。もと国立国会図書館調査局の同室の同僚で、のち広島大学教授になった、長与の最晩年の弟子・喜多村和之君に教えられ、びっくりして探しにでかけたのです。
長与はのち「青銅の基督」や「竹沢先生と云ふ人」で知られる白樺派の作家です。
彼は、明治四四年(一九一一)正月から一一月までの日記を三冊残しています。その二冊目の四月九日に「内村先生がこと」と題して、四〇〇字原稿用紙を綴じた日記帳に二四枚も書いているのです。内村と自分について毛筆で書き、一日分の日記としては他に類のない一万字に及ぶ「内村論」になっています。
彼はその一年半前、すでに内村に弟子入りしていた兄・岩永裕吉の強いすすめで柏木の内村のもとへ通い始めます。長与善郎がまだ学習院高等科の学生だった二一歳のころです。すると、たちまち内村の深さ、激しさ、やさしさに魅了され、学習院の先輩の「志賀直哉が、内村先生は日本一の美男子と称したるは偽言に非ず」としるしています。もちろん志賀がそう言ったのは、「ベートーベンが欧州一の美男子」と同じ意味での内村評です。
長与善郎は、たんに日曜日に内村の聖書講義を聴くだけではもどかしく、しょっちゅう内村をたずねて対話し、鑑三も彼を愛して交わりを深めました。しかしそのうち彼は、内村の狭さ、一本調子、とくに芸術への無関心に飽き足りならなくなります。そして間もなく内村のもとを去り、白樺派の結成参加へと進んでゆくのです。
内村のまわりには長与のほか、のち日本を代表する文学者がたくさん集まりました。小山内馨、有島武郎志賀直哉正宗白鳥らの作家たちです。しかし彼らはことごとく内村を去りました。なぜでしょう。内村という巨樹を仰いで、その人間としての魅力あふれる枝葉に感心したり失望して、その上の、天の父なる神、イエスご自身がよく見えなかったからです。イエスを指し示す鑑三。これが内村の本然の姿なのですから。「そうでないと、押し流されてしまいます」(ヘブライ二・一)