フィラデルフィア韓国人キリスト教会

さる8月末、米国フィラデルフィアへ行った。このまちの大きな日本人教会で牧会される柴川秀夫・悦子夫妻をたずねるためだ。そこで説教もたのまれた。驚いたのは、この大都市で、日本人教会は一つなのに、韓国人教会が200もあると聞いたことだ。在米韓国人に聞くと「牧師は、信者が一人でもいれば教会をつくる」と嘆いたが、韓国人の伝道熱心に日本人はかなわない。
韓国本国では総人口4900万人の20%が基督教(プロテスタント)、10%が天主教(カトリック)、仏教は20%だ。つまりクリスチャン人口は1500万人にのぼる。
わたしの見るところ、韓国教会は本国でも米国でも競争教会だ。伝道熱心で、一人でも多くの信者を、一つでも多くの教会を、そのために献金をと熱中する。
ソウルには教会が林立するが、教会の塔の十字架に夜は赤いネオンをつける。欧州のゴシック建築は神に近づこうと尖塔を高くしたが、韓国の教会は「わが教会ここにあり」と、地上の隣りの教会と競うかに見えた。その教会競争が「アフガン・人質事件」を起こした(注・7月、政府の要請も無視して、韓国の教団が海外伝道を急ぎ、信徒23名がタリバーンに拉致され牧師2人が殺害された事件)。
わたしが不思議にたえないのは、韓国プロテスタントのほとんどが、今も1937(昭和12)年の「改訳版・聖書」を使っていることだ。カトリックとの「共同訳」もあるが用語がカトリック的だと使わない。個人訳は2005年の朴魯洙訳が最初だ。韓国教会は教勢拡大には熱心だが、聖書そのもに迫り学ぶ熱心はいかがなものか。
英国清教徒は「プロテスタンティズムの倫理」を生み出したが、人口の3割を占めた韓国教会は、韓国人キリスト倫理を生み出すのに十分な数ではないのか。
「非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」(使徒17・11)