「生涯現役」と「引退の志」

「生涯現役」と張り切る方がいる。マスコミも、もてはやすが、多くの場合、後進の道をふさいでいることが多い。むかし大新聞の「生涯現役」特集シリーズに載り、活躍した方が天に召され、葬儀の司式を頼まれたが、ワンマン経営の事業後継者が大変。
東洋には「引退の志」がある。「帰りなん、いざ」と、歳をとれば郷里での隠棲を喜ぶ心だ。中国の水墨画に描かれる、深山幽谷の粗末な茅屋で、書を読み、詩を作り、畑を耕し、遠来の賢人と談笑する姿こそ、老年の理想だった。
西欧にも「リタイアの思想」がある。ある歳まで懸命に働き、余生は自分の心のままに過ごすのを貴ぶ態度だ。そして「回想録」をしるし、後進の参考に残すのだ。
キリスト教でも、むかしは「講壇で説教中倒れるのは、武士の討ち死と同じ名誉」と考え、「生涯牧師」を目指す方がいた。しかし歳を重ねると、話がくどくなり、くり返しが多く、注意されても頑固で手がつけられない。今では、大きな教団は70歳くらいが定年で、賢明にもあとは名誉牧師となり、時どき自由に後進を助ける。
問題はだれからも指図を受けない独立伝道者だ。わたしは75歳から集会を段階的に減らし、77歳で集会も解散。いまは居ながら老人でもできる週1度の「ブログ」、月1回の「白鷺から」、ふた月ごとの「インターネット聖書ばなし」を書き。人生の余韻を楽しんでいる。人それぞれ。わたしは「生涯現役」を貴しとしない。
「力は若者の栄光。白髪は老人の尊厳」(箴言20・29)