「朝鮮通信使」から「拉致問題」を見る

この2007年は、1607年に再開した「朝鮮通信使」招聘(しょうへい)400年記念の年だ。足利時代に始まった「通信使」は、秀吉の朝鮮侵略により中断。家康が国交回復に乗り出して復活。それは江戸期200年にわたる、官民あげての丁重、誠信、友好的な国際交流だった。
朝鮮王朝が「通信使」を再開・派遣したのは、秀吉軍に拉致連行された、3万人とも、5万人ともいわれる朝鮮人を帰還させるためでもあった。しかし帰還できたのは3千数百人か、多くみて7千人といわれる。江戸時代12回におよぶ「通信使」のうち、第1回から3回までは「回答兼刷還使」と名乗っているのも、被拉致連行者帰還が眼目だったからだ。
仲尾宏「朝鮮通信使」(岩波新書・9月刊)によれば、幕府も、刷還使も、諸大名に拉致捕虜の帰還をよびかけ、第1回刷還使は1607年に1300人を連れ帰った。第2回の1617年は321人。第3回の1624年は146人。さらに第4回の1636年は2人。第5回の1643年は14人と激減。なぜか。
1598年の秀吉軍撤兵後、20年、30年もたつと、被拉致朝鮮人も日本人と結婚する者が多く、子どもも生まれ、生活の基礎も固まり、帰還に応じなかったからだという。
いま北朝鮮に拉致された日本人家族が必死の奪還運動をしている。一日も早い実現を望むが、北朝鮮にいる日本人も拉致からすでに30年もたち、家庭をつくり生活の基盤を築いているはずだ。江戸期の朝鮮人拉致者同様、帰還を望まない者が出るかもしれない。その場合には、せめて往来保証制度ができないものか。それと、日本が16世紀と20世紀に、おびただしい朝鮮人を拉致した事実、その朝鮮人家族の悲しみにも心を留めることだ。
「家を建てて住み、、妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせ、、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、、主に祈りなさい」(エレミヤ29・5〜7)