茶筅雛(ちゃせんびな)

shirasagikara2008-03-03

きょうは「桃の節句」。わが家では玄関に茶筅内裏雛を飾る。父が裏千家の茶道教師で、どこかの茶道具売り立てで手に入れたものだ。
茶筅は、10センチほどの竹筒の半分を、細かく穂のように割き、先を内に曲げて、抹茶を泡立たせる。繊細で芸術品のような茶道具だ。
その茶筅に、内裏と姫を印刷した紙を貼ったのが茶筅雛だ。それがじつに気品がある。「お内裏さまと おひなさま 二人ならんで すまし顔」。この小さな茶筅雛を一つおくだけで、季節感がかもし出される。春だ。
この雛人形は、中国で、けがれを紙人形などに移して船に乗せ、川に流した風習が起こりだという。日本の禊(みそぎ)も、けがれを「水注ぎ(みそぎ)」で洗い流す考えだ。しかし、心のけがれは、そんなに簡単に水で流せるものではない。一時はさっぱりした気分になるが、またけがれがしみ出る。「背負い切れねえ罪とがは、その身に重き虎が石」は、白波五人男の南郷力丸のせりふだ。
バニヤンの「天路歴程」の主人公・クリスチャンも、「背負い切れぬ罪の重荷」を背負い、あえいだが、とある丘に立つ十字架を仰いだとたん、背中の重荷がころころと転がり、墓にのまれた。
人間の罪は水に流せるものではない。奴隷や遊女を解放するさい代価を払うように、身代金がいるのだ。キリストの十字架は、罪無き神の子が、罪そのものとなって人間の罪を贖った身代金だ。十字架の威力は、全人類を救うその保証金の巨大さにある。「背負い切れねえ罪とが」も、全部帳消しにしてくださっておつりがくる。それが十字架だ。
「 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた」(コロサイ2・14)