東京大空襲と伊東猛夫君

むかし3月10日は日本の「陸軍記念日」。1905年・明治38年日露戦争で日本軍がロシア軍を撃破、壊滅させ、奉天瀋陽)に入城した記念日だ。
1945年3月10日。300機のB29爆撃機が、この陸軍記念日に東京の下町を襲い、32万発の焼夷弾で無差別爆撃をし、10万の市民が殺された。
当時、四国の船舶幹部候補生隊で、わたしの隣りに寝ていた伊東猛夫君は、すぐ請願休暇を取って上京した。帰営した彼は「東京は焼け野原。実家の本所区で焼け残った蔵は三つだけ。両親や妹は行方不明」「横浜では東京空襲の焔で暗闇でも新聞が読めた」「米軍は下町の外側から爆弾を撒き市民の退路を断った。ひどい」「もう日本は負ける」と語った。
彼は入隊のさい身上調書の「崇拝する人物」欄に、敵国の大統領「リンカーン」と書き、わたしは「キリスト」と書いて共に区隊長にしぼられた仲だ。
東京大空襲以来、彼は「死ぬ」という軍歌は歌わなかった。この戦争で死ぬのはいやだったのだ。軍歌には「散兵線の花と散れ」とか、「水漬くかばねと身をささぐ」といった歌詞が多い。彼は口をつぐんだが、大勢で歌うからだれも気づかない。そして「早く戦争が終わんねえかな」が口ぐせだった。東京商科大学(現一ツ橋大学)予科生の彼は、教授から「もうすぐ日本は負ける」と聞かされていたのだ。
そして63年。伊東君も2年前になくなった。いま平和な日本で、格差だ、派遣パートの低賃金だとさわがしいが、どんなに社会に不正が横行し、暴力がはばをきかそうと、戦争の暴力、悲惨とはケタがちがう。63年の日本の平和。これぞ神さまの贈りもの。ゆめゆめ、おろそかにすまいぞ。おのおのがた。
「若いときに軛を負った人は、幸いを得る。軛を負わされたなら、黙して独り座っているがよい。 塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。」(哀歌3・27ー29 )