携帯電話依存症

東京の中央線で、6人がけの座席のうち、少なくて1人、多くて4、5人が携帯を見ている。見ながら親指で操っている。座席に座るなり携帯を開く。もう携帯なしに生きられないほどだ。高校生など携帯メールはエンピツがわりと聞いた。
83歳のわたしは携帯は使わない。字が小さいし、頭も指も動かない。しかし携帯はその機能が急速に進歩したと、大学生、高校生の孫に教えられた。
携帯電話だから「電話」ができる。「メール」も打てる。「写真」も「ビデオ」も撮れる。ワンセグの「テレビ」も見られる。「インターネット」にもつながる。だから「ゲーム」も楽しめ、「ニュース」も読め、「音楽」も聴けるし、携帯をかざせば「改札口」も通れ、コンビニで「財布代わり」に使える。「カーナビ」のように地図も探せるし、「携帯小説」まで流行するご時勢だ。
むかし日本人は、電車に乗るなり本を開き、わずかな時間でも活字に親しんだ。しかし携帯でメールを打つさいも、かなを漢字に変換してくれるし、携帯で活字離れの上に、日本文化の根幹を支える日本語の表現力の劣化は恐ろしいほどだ
わたしの従姉妹がNYでお産をした。「どのように痛むか」と聞かれ、日本語なら「しくしく」「きりきり」「ずきずき」「がんがん」と言えるのに、ただ「ache!」と答えるだけだったと笑った。そのうち、日本人が日本で、「どう痛むか」と医者に聞かれ、「痛い!」というだけにならないでもない「携帯依存症」進行の昨今だ。
エスの福音も、日本語の表現力が、イエスの世界を豊かに描き出す武器だ。その武器が錆びれば戦えない。この10年の「携帯の進化と日本語表現力の劣化」は深刻だ。
「初めに言(ことば・ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ福音書 1・1)