「洗礼を受けたい」。発芽の瞬間

東京の桜は、まるで雪のように散り敷いた。かわって欅並木の大樹の梢が萌黄色に染まる。負けるものかと、いっせいに繚乱の春の花々がひらく。雑草まで一所懸命だ。
12月、1月、2月と冬のあいだ、ゆっくり休んだ土の中から、押し出されるように力が湧き出る。とどめられない力強さだ。一所懸命だが自分の力ではない。
この春、入学する人がいる。就職する人もいる。結婚に踏みきる人もいる。みな新しい決心だ。置かれた「一か所」で「懸命」に生きればよい。少年、少女時代からの永い願いと努力が芽吹いたのだ。どれも、この内なる力に押し出されて動く姿が美しい。
「洗礼を受けたい」と電話があった。もう2児の母の声。わたしはこの時を待っていた。彼女の実家で家庭集会をつづけたさい、わたしは彼女だけを目当てに福音を話した。毎回「ほかの方はどうでもいい、寝ていてもいいんです」と言うと、みな笑った。
彼女もそれを笑いながら聞き、月1度の集会を休まず、熱心に話をノートしていた。その家庭集会をわたしは8年前に辞し、彼女も結婚した。その司式も頼まれた。結婚相手は優しい好青年だがクリスチャンではない。しかし彼女の魂に落ちた種は、一人子どもを生み、二人生むうちも、心の奥深く沈み、ゆっくり発芽の日を待っていたのだ。
「洗礼を受けたい」。発芽の瞬間だ。親も兄弟も伝道者も、させることのできないこの決心が、口を突いて出る。人間の力ではない。だれもとめられない。
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10・9)