選んだ庭木、イエスの選び

shirasagikara2008-04-13

庭に植えた草木が育つのを見るのは楽しみだ。
いま盛りの「紫木蓮」は、長男の小学入学記念植樹だ。もう45年も前。並び立つ「源平枝垂れ桃」は盛りをすぎたがまだ見事。隣家のベランダ隠しに植えた「譲り葉」は、庭いちばんの高木となり、萌黄色の新芽が伸び、その名のとおり根元に大きな枯葉が譲り落ちる。(写真は上から見た紫木蓮)
赤い「花水木」は、名古屋の造園家・池田睦夫妻が自家用車で運ばれたもの。植えたときは大人の背丈ほどだったが、隣りのモチの木と競い立って、5メートルの高い梢まで花は満開。柿の若葉も美しい。秋にはその甘柿を小鳥も喜ぶ。けさ「上溝桜」の葉陰に小さい花穂を見つけた。東北地方に多いこの桜の枝は、クワやナタの取っ手にするほど固い。
牡丹の花芽が赤くふくらんでいる。南の塀の上のジャスミンは盛んに花芽をツンツン立てた。一昨年その塀の外を、天皇・皇后が近くの老人施設訪問で走られた。なぜこんな狭い道を通るのか。
足元では「鈴蘭」の葉がすいすい伸びて白い花が楽しみだ。これは茅ヶ崎の五十嵐有爾様の庭からいただいて来た。日当りさえよければ雑草のようにふえる。不思議なのは「ストケシア」。わたしが洗礼を受けた浅田正吉先生がお好きな花だが、なぜか冬のあいだも葉が枯れない。5月の紫の花が待たれる。
狭い庭だから、これぞと選んだ草木だけを植える。キリストの「選び」は逆だ。「これぞ」と認められる人でなく、「我こそは」と自信のある者でもなく、選ばれる値打ちのない者こそ選ばれる不思議なお方。
「有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである」(口語訳・第1コリント1・28)