人はそれほど他人に関心を持たない

1週間まえの朝、鼻の下の髭は残して、思い切ってあご鬚を剃り落とした。ところが、だれも気づかない。朝食で顔を合わせた家内も気づかない。そのあと、妹や友人に会っても、なんの反応もない。人は私の顔の変化など気にも留めない。
じつは、それを逆手に取って、わたしはもう40年も、自分で自分の頭の髪を刈っている。「人は自分が思うほど見てはくれない」と決めこんで、少々髪の切り具合はおかしくても、気にしないでつづけている。
そうなんだ。人はそれほど他人に関心を払わない。「きょう、だれそれさんに会った」というと、家内は「何色の洋服だった」と聞くが、まったく答えられない。人を家に招く場合、いくらか花や、額や、テーブルクロスにも気を使うが、力を入れたわりには来客は口にしない。
しかし、まれに鋭く気づき口にする人がいる。さすがと思う。茶席では、正客が床の軸や花や茶道具を批評する。正しく評価されるのは亭主もうれしいものだ。
ぼんやり見ていていいものがある。わたしの鬚の変化など気づかなくていい。しかし家族の心の変化を鋭く見抜かねばならないときがある。夫と妻、親と子ども、姑と嫁。そのサインを見落としたばかりに、大事になる場合もある。
エスは、ギリシア人が面会を求めたとき、急に興奮して「時が来た」「心騒ぐ」と、死と復活の予告をされる(ヨハネ12章)。鋭くサインを見抜かれたのだ。さすが。
「人の子が栄光を受ける時が来た。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12・23-24)。