「1980年5月・光州事件」の思い出

映画「光州 5・18」(キム・ジフン監督)が公開中だ。これは1980年5月の「光州事件」を画いたもの。光州事件は韓国軍が韓国市民を虐殺した大事件だが、全斗煥軍事独裁時代に起こったため、ながく韓国内でも封印されていた。
わたしが光州市に入ったのは事件から10か月たった1981年3月末。道庁裏の光州YWCAの玄関の壁は無数の弾痕。会長室の壁の本棚には、ぶっすり銃弾が突き刺さったまま。3階のむこうの建物から撃ってきたという。YM、YWは反抗の拠点だった。当時の光州には、この事件を世界はおろか韓国人まで知らないという、無念さと怒りが満ちていた。
非常戒厳令のもとソウルではデモも沈静化したのに、民主化要求の渦巻く光州へ、5月18日、ごうを煮やした軍隊が突入して市民・学生を殺害。その負傷者を運ぶタクシーの運転手まで、これはひどいと怒り出し、兵役を経験した学生たちは武器庫の兵器を奪って軍と戦い、部隊は撤退して光州を包囲した。
プロテスタントカトリックのリーダーを中心とする収拾委員会ができ、つかのま光州は解放区となった。銀行も正常で、市内に犯罪もなくなったという。
しかし5月27日、包囲軍は光州に再突入。そのさい無差別攻撃を拒否した司令官・鄭雄少将は即刻軍服を脱がされた。3000人が連行され、死者は300名以上ともいわれる。
その死者の共同墓地を郊外にたずねた。途中YMやYWのリーダーが、内乱陰謀罪で収監されている監獄の横を走った。韓国特有の円芝の墓に突き刺さった木の十字架には「韓国神学大学二年生 故柳東○」としるされ、○は土に沈んでいた。
帰国のさい金浦空港で、学生を支援している牧師から、かくまっている学生リーダーを日本へ逃がしたいが、受け入れてくれないかと頼まれ、暗号の取り決めまでしたが来なかった。米国へ逃げたとあとで聞いた。
「すべてのわざには時がある、、、生るるに時があり、死ぬるに時があり、、、戦うに時があり、和らぐに時がある」(伝道3・1、2、8)<口語訳>