キリスト信仰の継承・愉快に一所懸命

庭のどの草木も一所懸命だ。根づいた場所で懸命に伸びている。たしかに根づくことはすごいこと。アサガオのような一年草は、毎年種をまかないとふえない。
キリスト信仰も根づくことが大事だ。根づくとは、一代かぎりでキリスト信仰が終わらないことだ。本人は信仰熱心でも一代かぎりでは、ちょうど一年草のように、来年はほっておくと芽が出ない。それが太い幹の樹になれば大風でもびくともしない。
もちろん信仰の継承は、神さまのあわれみで人間の力ではない。しかしアブラハムが息子イサクに、同じ信仰の同族からリベカを嫁に迎える配慮をしたような、心配りも大切だ。
この信仰の継承は、家庭で親たちが、本気でキリストを信じ喜び生きていれば、子どももその影響を受ける。だが、ただまじめなだけでは伝わらない。老いも若きもいっしょになって、主の前に楽しみ喜ぶことが大事だ。旧約聖書の民にこれがある。
カトリックが優れているのは、信仰生活に真剣と遊びの、お祭り要素を取り込むふところの深さだ。日本のプロテスタントは、世界でも珍しくお祭り要素のないまじめ一方。
とはいえ日本にも、明治以来ながくプロテスタント信仰が根づいた家庭がたくさんある。すべて、親たちに欠点はあっても、ことキリスト信仰にかんしては一所懸命で、それでいて愉快な笑いの多い家庭だ。もう100年あまり、ずっとキリスト信仰の中で育つと、ほかの信仰で生き死にすることが考えられなくなるのだ。こういう姿を根づくという。100年の樹は、四方に枝が伸び、花が咲き、種を散らす。
もちろん、一年草も美しい花を咲かす。そこからたくさん種もとれる。お米などまさにそうだ。しかしキリスト信仰が根を張った国々は、代々の親が、一所懸命に信仰の継承に努めたのではなかったか。
「神は大いなる喜びをお与えになり、女も子供も共に喜び祝った」(ネヘミヤ12・43)