準備万端整わず

思えば「準備万端整わず」の、わたしの人生だ。もちろん、完璧な準備など、できるはずもないが、それにしても、準備万端整わずに、よくここまで来れたものだ。
洗礼からして、洗礼準備の教育を受けたわけでもなく、軍隊に入るまえ、福音を聴いた日、その場で、その家の浴場で、すぐに洗礼を受けた。
結婚も、かねて婚約はしていたものの、別に準備万端整えたわけではない。住む家が出来たので、あたふたと結婚した。
伝道者になって、聖書の話に出かけるときが、いちばん「準備万端整わず」を痛感した。あまり集会が多くて、月に30回以上集会で話していて、午後の家庭集会で話すことを、午前に勉強し、その夜の話のために、午後おそくねじり鉢巻のこともあった。準備万端どころではなかった。
ニューヨークのメトロポリタン美術館で見た十二使徒群像に衝撃を受け、ぜひわたしも彫りたいと願望したのはいいが、わずか1年、朝日カルチュアで美術大の先生に木彫の手ほどきを受け、もう5年、使徒像に悪戦苦闘。これぞ準備万端整わずの最たるもの。
2006年、ブログ・エッセイを、365回ホームページに載せたときもそうだ。文章の推敲もままならず、思いついたことを、一撃のもとに書いてゆかねば追いつかない。
人間、時には準備おさおさ怠りなく、隅から隅まで諸事万端に注意を払って取り行わなくてはならぬこともある。たとえば式典がそうだ。
しかし、わたしたちの人生、準備万端整わずとも、始めねばならぬことがある。やるしかないのだ。そして気合を入れて、一撃のもとに生まれた構想は、荒削りでも核心をつかむ。その核心をつかんだ構想を、あたためてゆけば、あんがい面白い人生になるのではないか。これからも準備万端整わずに行くしかない。
エスも言われる。「王や総督の前で信仰の証をさせられる時、準備をするな」と。
「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」(ルカ21・14 )